2010/10
長久保赤水の日本地図君川 治


 35度を超える7月のある日、日立の友人の案内で長久保赤水を訪ねた。国道6号線と旧道の分かれるところに赤水の旧宅があり、その昔、水戸藩主徳川治保が訪ねて来た時に建てた秋月亭址の碑が建っている。
 旧道を南に進むと赤水生誕の地の碑が建っている。赤い文字が目立つが、名前(赤水)と地名(赤浜)が共に“赤”だからだろう。写真では見難いが日本地図が赤い線で描かれている。
 高萩市に戻って高萩歴史民俗資料館を訪ねた。ここに長久保赤水が作成した日本地図「新刻日本輿地路程全図」が展示してある。一見して現代でも違和感のない、彩色した綺麗な地図である。
 東京から来たと学芸員の方に話していると、古いものだと言いながら資料館作成の「長久保赤水 年譜」と「長久保赤水 水戸藩侍講 地理学者」の小冊子を下さった。家に帰ってから思い出したのだが、歴史民俗資料館の学芸員は長久保赤水の子孫の方が務めている筈、シマッタ!と思ったが後の祭りである。
 地図の制作者といえばほとんどの人が伊能忠敬を思い出すと思う。勿論、伊能忠敬は日本の沿岸を自ら歩いて測量し、正確な日本地図「大日本沿海輿地全図」を最初に作り上げた人である。
 この伊能忠敬より約40年早く、長久保赤水がかなり正確な日本地図を作成していたことはあまり知られていない。長久保赤水の日本地図「新刻日本輿地路程図」が完成したのは1775年、大坂の印刷業者から「改定日本輿地路程図」として出版されたのが1780年である。この赤水地図は江戸時代後半から明治まで8回刊行されて、一般の利用に供された。一方の伊能地図は1821年に幕府に上程されたが、鎖国政策をとる幕府はこの地図を「秘図」として公開せず、一般公開されたのは明治4年である。
 長久保赤水は常陸の国、現在の茨城県高萩の、農家とはいえ郷士の出身である。祖父は長久保太左衛門宗順、その次男・長久保善次衛門貞道を父に、長山半兵衛重俊の娘・阿重(オシゲ)を母に、1717年に生まれた。若くして学を志し近郷の漢学者・医師の鈴木玄淳について学んだ。幕府親藩・水戸徳川家は1661年、2代藩主徳川光圀が33歳で藩主になると文武両道の学問を奨励し、大日本史編纂事業のため彰考館を設立した。この総裁に名越南渓、立原蘭渓など朱子学者を招へいしたが、赤水はこれらの学者にも学んでいる。
 家が街道筋にあったことから、赤水は地理に興味を抱いて1760年、53歳の時に奥州を旅する。1767年には藩の荷物運搬の船が遭難し、船員がベトナムに漂着、生き残った4名が中国船で長崎に帰着すると、藩命を帯びて長崎まで出かけている。庄屋が長崎へ引き取りに行くのを渋ったので、長久保赤水は庄屋の代行として長崎行きを志願したものである。この往復3か月の様子を「長崎行役日記」に纏めているが、挿絵が素晴らしく上手く、異国船やオランダ人など見事に描かれている。 
 ところで長久保赤水は日本地図をどのようにして作ったのか、地図の歴史研究者の間でも詳細は分らないようだ。赤水は各藩で書いた道中案内を集大成し、20余年をかけて門前を過ぎ行く旅人などから教えを受け、画期的な日本図を作りあげたと云われている。彼の地図作製は測量を伴ったものでは無い。好奇心旺盛な研究者である長久保赤水は、水戸彰考館総裁となる小池友賢や大場景明にも、天文学や暦学を学んでいた。
 長久保赤水の子孫で科学史や地理を研究している長久保光明氏は、その著書「地図史通論」で次のように述べている。

  ―― 赤水の学問上の業績は、それまで一部の知識人の
  ものであった日本、中国、世界の地理知識を地図という
  形で出版し、広く一般の人のものにしたことである。…
   日本地図では当時石川流宣のものが普及していたが、
  経緯線、縮尺もなく、道路・村名、およその里程がある
  だけだった。」
  ―― 大名武鑑、道中案内記の類、橘守国の経緯線を引
  いた日本略図、渋川春海の緯度測定値、ヨーロッパ人が
  航海図として重用したポルトラノ海図なども利用している」

 52歳で水戸藩郷士格に取り立てられ、60歳でなんと6代藩主・徳川治保の侍講侍読に取り立てられ、江戸の小石川藩邸住みとなっている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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